波乱の生涯 行方貞一

いつも一攫千金を夢見ていた男。休みも惜しみ稼ぎ、その稼ぎをすべて飲んでしまった男。常にアイデアをもち、ノートに書き込んでいた。そんな貞一。

大正8年3月25日 山形県米澤市上花澤信濃町2124番地に幸一、み江の長男として生まれる。

大正十年頃
貞一三歳の頃 母み江25歳
昭和八年三月 米澤市東部尋常高等小学校卒業
(貞一中央先生の左)
卒業記念写真集
四クラスの写真がある。
なぜか悲痛な面もちの貞一。考えるところでもあったのか。なぜか長靴を履いている。

高等小学校を卒業後、米澤第一中学校、置賜農業高校を卒業、農協に入る。

昭和12年の冬 1月16日
東部尋常高等小学校第2回卒業生同級会
和田屋会場にて 
貞一 左端
拡大図 まだ若々しい。
昭和十三年12月16日軍服用にうさぎの毛皮の増産が叫ばれていた。なめし工場において。貞一十八歳 そのころ、農家に指導に行って。

農協在職中に兵役で中国北方へ。一時、兵役を離れるも、また太平洋戦争で出征する。

終戦直後か?水着の女性がなぜ? 滝のそばで泳いでいるらしい。この近くなら、小僧ヶ滝なのか。越中姿である。この水着の女性は、田舎らしからぬハイカラなようだが?ぎもん。
農協の仲間?三輪トラックに乗っているので昭和20年代から三十年代の前半だろう。
あの頂上がかけている山は磐梯山か?
昭和三十三年、み江の実家である椎野家の葬儀で。まだ青年のような貞一。このころ四十歳か。
昭和41年。国道十三号、栗子峠が開通した。道路がアスファルト舗装になっている。現在の信濃町を同じ方角から写した写真はこれだ。その変わり様に驚く。写真中央に酒の看板があるが、今はコンビニになっています。 ↑葬儀での拡大写真。
昭和四十年代前半と思われる店頭。 栗子峠に見物に行ったところ。この子供が行方正男。小学校の低学年か。二年か三年?四十年とすれば三年生だが。真ん中が貞一。正男が二歳の時に脳卒中になり、左半身が不自由になってしまった。急に老け込んだようだ。上の写真と7年しか違わない。

今後家系図を公開する予定。ご期待下さい。